娘の方が お金持ち^_^
9月16日(日)
大阪は朝から晴れて暑くなりそうだった。
土曜の夜、娘が「明日、予定ある?」
「ないよ?どこか行くの?」
「カメラ、買いに行こうかと思って。一緒に来てよ」
娘は大学で、写真部に入った。
中学、高校とずっと演劇部で、部長をしてた。
当時からあちこち、大学の演劇部の公演も観に行ったりしてたので てっきり、演劇をやるのものだと思ってた。
私の父、つまり娘の祖父は 日本の時代劇映画全盛期の昭和20年代後半から30年代後半まで 映画の仕事をしていた。
京都太秦の東映(当時は大映)で、映画の助監督や脚本をやっていて 日本映画の祖である嵐寛寿郎先生(ググってみて)とは昵懇だった。
片岡知恵蔵先生もたまにご飯をご一緒したりしてた。
私がまだ3歳くらいのとき、嵐寛寿郎先生と、天龍寺のお庭で野点のお茶会でご一緒した記憶がある。父に連れられていった映画界のパーティだったようだ。
演劇の世界にいた父は、その後、普通のサラリーマンになったけれど うちには当時、父が脚本を書くための原作本(文学全集みたいなやつとか、いろんな小説とか)がたくさんあって、図書室と呼ぶ部屋に蔵書が山ほどあった。
映画のパンフレット、映画スターの写真集なんかもいっぱいあって、小学校くらいになると私も読み漁った。
その血を引く娘は、演劇部で脚本を書いたり 主演をやったり。蛙の子は蛙、なのか。
そのため、デザイン科で舞台衣装やドレスを学んだ私も、徹夜で衣装を縫ったりしたものだ。
大学の演劇部は、本格的なところが多く、娘の大学の演劇部も例外ではなかった。
でも、娘は迷った挙句、演劇部には参加しなかったのだった。
演じること、脚本を書くことを経験してしまった次に娘が目指したのは 映像の世界。
不思議なことに、私の父も 映画界を去ってから、映画のビデオカメラを覗くことはなくなり、代わりにスチール写真を撮るようになった。
まだ、デジカメもない時代、カメラはサラリーマンの月収の3倍もする時代に、父は
サラリーマンとして働きながら、高いカメラをいくつも買い、休みといえば撮影旅行三昧だった。
やっとカラー写真がではじめた時代のことだ。
うちにはフィルムを現像する暗室があって、家にはフィルムのプラスチックケースがたくさんたくさんあり、妹が赤ちゃんの頃のおもちゃは、フィルムケースに小さいビー玉を入れたガラガラだった。
自分で、露光やカラーや、全てを調節する時代。デジタルでなんでも簡単にできる時代ではなかったが、父はメキメキと腕を上げて、写真展に出すと必ず賞をとり、そのうち 審査員になり、写真は選外でもう審査対象から外れるようになった。
また、その血が騒いだのか。娘は写真部だって。
大学が決まった春から、バイトを頑張った娘は、一眼レフカメラを買うと決めていたらしい。
最低でも7万くらいする高いものだから、1人で買いに行くのはためらわれる、ママ、ついて来て、というわけで
朝から近所の家電販売店に行って来た。
娘は、先日の写真部の合宿は、先輩に 使わないカメラを借りていた。合宿に参加して やっぱりちゃんとしたカメラが欲しい、と思ったようだ。
合宿代と、合宿での食事代、お小遣い、全部合わせて8万円くらいを貯めたバイト代で払い、次は一眼レフとか、お金大丈夫なの?と心配になった。
娘は「バイト頑張ったし、ばぁばからもらったお年玉とかお小遣い、今まで全部貯めてたし、大丈夫」と13万、銀行から引き出してきていた。
偉いな、娘。
そして今日、念願の Canonの一眼レフを買ったんだ。
SDカードやら、別売りの望遠レンズやら、予備の充電バッテリーやら、しめて11万弱。
また、お金がなくなったから、頑張って働かないとなー、と 買い物から帰ってきたばかりなのに バイトに行った娘。
大学の秋学期始まったら、フルでシフト入れないから、今のうちに稼がないと、って。
自分は働きもしないで、私だけに働かせて 生活費とお小遣いせしめて 女のとこに入り浸ってた 人間として最低最悪な旦那に似なくてよかったよ。
私は、娘が疲れて帰ってくるだろうから、ゆっくり浸かれるお風呂を用意する。
頑張れ娘。自分の欲しいと思うものは自分の力で手に入れる。だからこそ価値がある。
自分で自分の生活の面倒を見られないような大人にはならないで欲しい、それだけが母の願いだ。