暁に祈る事件

太平洋戦争で日本が敗け、中国大陸にいた日本兵と一般人86万人がソ連の捕虜となり、シベリアで強制労働に従事させられたことは多くの人が知っている。また、それらの捕虜を含む帰還兵たちを待ちわびる舞鶴港での母親の気持ちを歌にした「岸壁の母」も知っている人は多いに違いない。

 ただ筆者のように戦後世代に属する者たちには、その捕虜期間中にかの俘虜地で行われた、日本人による日本人への凄惨な事件があったことはあまり知られていないと思う。それは吉村隊事件と呼ばれている。

 戦後その捕虜になった人たちが帰国してから裁判になった事件がある。いきさつはこうである。

 ソ連の捕虜になった者たちのうちの千人が、モンゴルのウランバートルの収容所に入れられ強制労働に従事させられた。その際、捕虜収容所長に任命されたのが、戦争中憲兵だった吉村某という者である。彼はソ連から与えられたノルマに、自分の意思でさらに20%割り増しして労働させた。

 本人は所長だから働かなくてもいいが、一日に黒パン一つというような過酷な環境の中での重労働だから、倒れる者が続出した。すると吉村はノルマをこなせない者(同朋である)には食事を与えず、屋外の木などに半裸にして一晩中縛りつけるようなこともした。零下40度から50度になる酷寒の地である。当然ながら仮死状態になった者たちは朝には首をうなだれてぐったりとしている。それが祈るような姿勢に見えたことから、当時、映画にもなった「暁に祈る」という曲にちなみ、「暁に祈る事件」として知られるようになった。吉村はさらに、捕虜たちから腕時計を取り上げるとソ連兵などに差し出し、歓心を得ようともしていたそうである。

 当時の捕虜たちが戦後数年してから帰国した後、吉村は当時自分が所長を務めていた収容所にいた元隊員たちから、当時の仕打ちで告発された。吉村は当時はそうするしかなかったと言い続け、最高裁まで審理が移されたが、1952年に最終的には不法逮捕監禁、遺棄致死罪だけで懲役3年の刑で終わった。

 裁判中には、こんなものにこだわっていては国家の再建に邪魔だという投書もあったり(たぶん、旧軍の恥部をさらけ出す事はないという人たちの意見でしょう)、事件そのものが古い日本の社会機構から必然的に生まれたもので、単なる暴行事件として終わらせてはならないという意見も出たりした。吉村が憲兵隊出身ということにも事件のひとつのカギがありそうではある。つまり、彼が行ったことは当時の憲兵隊では普通のことであったはずであり、それはまたどのようなことで普通とされるようになったかを考えるべきことが新生日本のためになるという意見もあったのである。

 筆者の経験から言うと、外部に閉鎖的でかつ組織立った組織であればあるほど、その中に必ず権力におもねる者が出てきて、それが構成員の間にチクリや陰口、仲間外れを引き起こし、ついには一部の人間による組織の乗っ取りが行われるようになると思う。

 昨今の政・官・経済及びスポーツの各世界では、なんだかそのことが当たり前のようになってきているようで、筆者などはいささか居心地が悪いをしている。そんなことが日常的になってきているのは、日本人が劣化してきているためではないだろうか。

参考:朝日新聞社朝日新聞100年の記事に見る」、戒能通孝「暴力・日本のファシズム機構」。

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